2020年9月11日放送の『爆報フライデー』で東大在学中に会社を企業し大儲けした山崎晃嗣(やまざきあきつぐ)さんが取り上げられます。
光クラブ事件として一躍注目を浴びた山崎晃嗣(やまざきあきつぐ)さんの生い立ちをまとめました。
また、父親・母親など両親や家族についてもご紹介させていただきます。
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光クラブ事件とは?
光クラブ事件とは、東京大学の山崎晃嗣による闇金融起業が法律違反として検挙された事件です。
1948年に東大生の山崎は、友人らとともに貸金業の『光クラブ』を設立。
広告を大きく打ち出し多くの資金を集め、それらの資金を高利で貸し付けて利息で稼いでいました。
しかし1949年、山崎は物価統制令違反で逮捕。
法律で定められている利息を超える金額を出資者に払っていると、山崎の愛人による告発があったのです。
山崎は利子ではなく配当金だと主張し釈放。
その後、社名を変更し資金を集めるも出資者からの信用を失い業績は悪化。
およそ3,000万円もの債務を履行できなくなった山崎は服毒自殺をしました。
【画像】東大・山崎晃嗣(あきつぐ)の出身プロフィールや学歴
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東大・山崎晃嗣(あきつぐ)の生い立ちや経歴
1942年に東京帝国大学法学部に入学するも、学徒出陣(兵力不足を補う)で軍隊入りしています。
そこでは隊長や参謀が、軍務そっちのけで米や油などを横流ししていたそうです。
戦争の敗戦時には、山崎もそれにならって地位を利用して軍事物資の横流しをして検挙されました。
上官をかばい、横領罪で執行猶予付きの懲役を受けます。
その後、終戦を迎え東大へ復学することになりました。
山崎晃嗣の日記と大学時代
東大復学後は全ての科目で『優』を目指し猛勉強し、勉強や睡眠、女性関係に至るまで細かく分刻みにスケジュールを記録していたようです。
最終的に全ての科目で優を取ることは出来ませんでしたが偏執狂的とも見えるスケジュールをつける習慣は、死の直前まで続いたそうです。
病的なまでのスケジュール張で分刻みに行動が書いてあり、その横に『◎・〇・△』の評価をつけていました。
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一番左の欄には何をしていたか行動の内容を包み隠さずに記録。
- 対人関係においては、大学構内でほとんど人と接することは無く、山崎が心を許した友人はごく少数でした。
- 一方で、
- 恋愛やプラトニック・ラブという感情とは全く無縁で愛人が6人いたそうです。
- 「誠意とはいいわけと小利口に逃げることである。私の誠意を見てくださいという言葉ほど履行されぬものはない。人は合意にのみ拘束される」と愛人の1人に告白しています。
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山崎晃嗣のその後や現在
山崎晃嗣は光クラブ事件で服毒自殺をし生涯に幕を閉じました。
また、山崎が生まれた家は現在、千葉県木更津市が管理する『山崎公園』になっています。
公園の名前が山崎公園ということは山崎晃嗣の名前からとったのでしょうか。
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山崎晃嗣(あきつぐ)の家族について
山崎の家族や両親についてまとめました。
山崎の他に兄弟が4人おり、5人兄弟の末っ子として生まれました。
山崎晃嗣の父親
山崎の父親は、『山崎直』といいます。
医師で木更津市市長だった父親はまさにエリート。
千葉県木更津市生まれで第一高等学校(現・東京大学教養学部)から京都帝国大学医学部を卒業した医学博士です。
兄弟が3人いて、全員が医師や医学博士というエリートなんだそうです。
特に一番下の弟は、医師で弁護士界の長老的存在だったそうで山崎晃嗣さんはすごい家系的に生まれていたんですね。
山崎晃嗣の母親
母親は『夫沙子』といい、上野の音楽学校(現・東京芸術大学)出身です。
音楽家ということは判明していますがそれ以外の情報は分かっていないようです。
山崎晃嗣の兄弟
山崎は5人兄弟だと前述しましたが、父親は子供たちに一高から東大医学部に進学→医学部の教授にさせるつもりだったそうです。
しかし、兄たちは一高に入れず、勉強が得意だった山崎晃嗣さんに全ての期待がかかったそうです。
その結果、遊んだりすることもなく非常に大事に扱われたようです。
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【光クラブ】山崎晃嗣をモデルにした本や作品
山崎や光クラブをモデルにした作品は数多くあるようです。
【光クラブ】山崎がモデルとなった小説
三島由紀夫が書いた『青の時代』
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・北原武夫が書いた『悪の華』
・田村泰次郎が書いた『東京の門』
・高木彬光が書いた『白昼の死角』
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こちらは1979年に映画化されています。